お気持ち表明: VRChatに来てまで人を排除するな


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VRChatにおけるコミュニティについて強く批判する記事があったので読んでみたんだけど

本当に気の合う仲間だけで即座に集まることができて、不要な衝突を避けながら関係を維持できるからである。

VRChatで自由に遊んだ結果トラブルを避けられない(これがグループインスタンスだろうが結局身内で閉じこもる)なら、常にワンボタンで集まれるDisocordの方に軍杯が上がるのは必然だ。

そして、問題のあるユーザーの存在が後から判明したら、仲の良いユーザーだけを招待して別のチャンネルを作ればそれで解決。

余計な摩擦を避けながら仲の良いフレンドとの関係を維持できる。

これは外から見ると「陰湿」「排他的」に映るが、実際は文化的に自然な人間関係の作り方であり、「悪意」ではなく「安心の確保」に基づいた行為なのだ。

なんなら、問題が起こらなかろうと日本コミュニティのユーザーはDiscordに篭りがちだ。

…とても嫌な記憶を思い出してしまう。

「問題のあるユーザー」。「不要な衝突」。

「文化的に自然な人間関係の作り方」として「余計な摩擦を避けながら仲の良いフレンド」だけで関わろうとする。

それが「陰湿」「排他的」であることもわかりつつ、正当化した上で「交流の場のあるべき姿」として提示する。

これは、別に日本に限ったことじゃない。現に海外育ちの僕が散々海外でも、日本でも苦しんだことだ。

 まず運営側の視点からすると、VRChatはグローバル市場を前提に設計されており、日本のような「狭く深い関係」を前提としたニーズは全体の中ではニッチなものに見える。

人と人の間の「狭く深い関係」が「日本特有」だとでも言いたいんだろうか?馬鹿なんじゃないのか?

海外でも普通のことである。「問題のある人間」を排除して、社会的な通念を維持していく。

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あの「自由」を標榜しようとするアメリカだって、根底では日本と何も、何も変わらない。

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そして排除された人間は時に、耐えられなくなり、自殺することもあれば、人に対して死を強要することだってある。

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それはただの狂気なのか、それとも失われた正気の末路なのか。

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「イレギュラー」として処理して良いのか。稀で、特に悩む必要もない事例なのか。

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そして時に排除の運動は集団的、政治的、軍事的になっていく。

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「普通のこと」「理想的なこと」として、都合よく再解釈され、利用される。

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「いや、自分たちは違う」と主張し、自らを振り返ることを忘れる。

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そうして歴史は、特に嫌な歴史というのは、繰り返していく。

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根本は一緒だ。「自分たちの都合で、人から居場所を取り上げて、存在を消す。」

それがたとえ個人一人でも、特定の集団でも、特定の民族でも。

 例えばSkypeやDiscordがない時代の、かつてのMMORPGやオンラインFPSのようにレベル上げや勝敗、報酬といった明確な目的があるゲームの中でなら、多少人間関係に摩擦があってもユーザーは交流とは別の目的があるため我慢して継続していれたかもしれない。

 厄介な人がコミュニティに混ざっていても、装備を整えたいとか、レイドに行きたいとかランクを上げたいといったコミュニケーションとは別の主とした動機がある、つまりその環境・世界の中に留まる理由が別に存在していたのだ。

(最も、この環境の本質は寛容ではなく強い我慢でしかない。それが故にガス抜きとして匿名掲示板での晒し行為が横行したり、陰口や暴言と言ったトラブルにつながっていたのも事実だ)

 しかし、これに対して現代のVRChatや他メタバースのように「人との交流」自体が遊びの目的になる環境では、そこで生じる人間関係のストレスがそのまま居心地の悪さにつながり、耐える理由がなくなる。

人との交流ということ自体、「ストレス」を生むものである。

人間というのは単独で生命を維持することが甚だ難しい。

一人で山奥で、全く工具も何も、「他の誰かが作ったもの」や「他の誰かが維持しているもの」を使わずに暮らしてみろ。

畑を耕すどころか、何を食えば良いのか、育てれば良いのか、どう行きていけば良いのかわからないだろう。

僕だってわからないよ。そういうものなんだと思う。

だから、少し考えが違ったり、別の場所から来たり、言葉が変だったり。

よくわからない神様を信仰していたり、特定の食べ物を絶対に食べなかったり。

これまで、結局暴力的に「異端者」「異民族」「異常者」として排除、排斥、そして始末することによって歴史は作られてきた。

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それを真理、世の中のあり方、自然だと受け入れてしまえば、それまでのことだ。

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せっかく、世界中を数ミリ秒という速度で、何GBも送信できる「インターネット」を作って、

身体の動き、声、まるでそこに人がいるかのような動きさえも送る「VR」を作り出し、

好きなように全く違う姿になれる「アバター」をまとい、純粋な「自分」でいられるようになったところに、

「自分」と「自分みたいな人」、「自分の仲いい人」だけで過ごすような閉塞感をわざわざ持ち込むの?

海外から来ていて、少しユーモアがダークすぎて、人を見下したり、一人で考え込んで、時に暴れてしまうような私にだって言えることだ。

せっかく、「人として人を見て」、「人として自分が見られる」チャンスが再び到来したというのに。

行動や言動が気に食わないから無視する。

考え方がわからない、理解できないからキチガイ扱いする。

姿や形、話し方、声が気に食わないから劣等扱いする。

これは私がされてきたことでありながら、私が人にしてきたことだ。

とてつもなく強いナルシシズムだ。

そう、私がしてきたことだから、私にこれをされた人は大勢いる。

そして、私がされてきたくらいだから、私以外にこれをされた人も大勢いる。

たくさんの人を傷つけてきただろうし、たくさんの人に傷つけられてきた。

だから、もしもそうしないことが「寛容ではなく強い我慢でしかない」のであれば、「耐えなければならない」のであれば────────

────────それでも耐えてやる。意地でもね。

だって、そうしなければ、何もかも耐え難くなってしまうから。

耐え難い差別、排除、抹殺、消滅に怯えながら、その恐怖を人に味わせることになってしまうから。


もとの記事の魚拓を貼っておきます。

https://archive.is/fX7tk